2. いけばな と デザイン

椿 いけばな

椿 / 器: 須知大、 撮影:大谷健二




「2. いけばなとデザイン」




トボは、いけばな+デザインユニットとなっていますが、いけばなは、実は「いわゆるデザイン」ではありません。


フラワーアレンジメントなどが表層的な「いわゆるデザイン」ですが、いけばなはより深層的というか、広義のデザインなのです。
ほんとうのデザインとはそもそも、フルッサーさん*がいうように、「デ+サイン」なのであって、「型からの逸脱のためのシステム」と考えるのがしっくりきます。
いけばなは、ほんとうはそんなシステムです。


けれど、いけばなのやりかたはすごく変わっています。
いけばなには伝統的な「型」があって、みんなそろいもそろって型に花をあてはめていく練習をしているようにみえるからです。なのでぱっと見、型からぬけられないんじゃ、ダメじゃん、とおもってしまいますね。


このため、このご時世に、自由とか、オリジナリティーとかなくていいのかよ、とか、こんなのは「いわゆるデザイン」ですらない、まして純粋芸術でなどありえない、という批判も実際多いです。
この反動として、派手なパフォーマンスであったり、大きいとか、きらびやかな何かしらであったり、そんなかんじのものをよく目にします。これらは一見、現代風で、たしかに伝統の「型」からは抜けているのですが、果たしてこれ、抜けてよかったのでしょうか。


しかし、そもそもですよ、そろそろ、いまここ、の即効性すなわち経済性ばかりを追求するようなハデなことがらに、みなさん飽きがきているのではないでしょうか。この路線は、世界中を超高速に、均一にしていくけど、そんな世界は便利だけれどあまり面白みはなさそうなきがしてしまいます。
花に関していえば、かたちやいろとかいった、花の「いまここ」の即物性、すなわち花の「サイン」の地点にとどまってしまうと、せっかくの、そこから本当に"抜けて"いけるための、いけばなの「デ+サイン」としての高度な理論があまりみえなくなってしまうのではないでしょうか。


じつは、いけばなの「型」は、その表層の奥で、花をいわゆる現世のイメージ(サイン)から常世にうつす(デ+ザイン)ということをやるための一つの装置なのです。あくまでも地味で地道な。。
トボは、こんな、いけばなの「いま、ここ」と「いまでもなく、ここでもなく」とをつなぐルール、にとても興味をもって見つめています。
それこそが、本当にすばらしいデザインなのだとおもっています。


しかし、型をもって型からぬける、なんていう逆説的ないけばなのしくみ、どんなふうに説明できるのでしょうか?



*ヴィルム・フルッサー「デザインの小さな哲学