桃居の展示のこと

今年も桃居の富井さんの個展のを作成しました。

小松さんが庭の土で丁寧に塗ってくれた壁で散乱する光の中で、
富井さんの彫りと形と、木目とがあわさると、まるで宇宙。
この成就に何か名前をつけても良いように、思います。

今年も桃居では、富井さんの作品に合わせて、ナノ世界のイメージを展示しました。
工芸青花の菅野さんからいただいた短いコメントが大変深かったので、引用します。

「富井さんのこの彫文様の仕事は、思うに、不可逆的な「現代」と「工芸」の関係の不自然さの自覚にもとづくもので、おそらくその両義性ゆえに孤立しがちだろうけれど、孤立させてはいけないと思いました。現代の工芸の可能性は、この「不自然さの自覚」から生れると私も考えているので。」

せっかくなので、これに「自然」も付け加えておきたいと思います。

「現代」と「工芸」、またそれらと「自然」とは、本来分かち難くあるべきだけど、現在の文脈ではなぜかこれらが極めて「不自然」な関係になっているのだそうです。端的には不自然なのは文脈の方なのだけど、これをあえて文脈中で自覚的にその不自然さを問うていくという作業、それはとても地道で非効率でしんどいけれども、確かにそこにこそ正しい可能性を見出すことができる道に思えます。

「Comfort isolates(安寧な状態は人を孤立させる、木幡和枝訳)」とはスーザン・ソンタグの印象深い言葉ですが、「現代」も「工芸」も、また「自然科学」も、わざわざ自己を限定した文脈中に安寧を求めがちであるが故に、下手をすると分野全体が分化というか孤立していきがちではあります。そんななか、その文脈に乗らないような作品を作るのは、当然文脈中では孤立しがちで危険なのですが、それこそが実は非・孤立に至る可能性の道であり、富井さんの孤独ともいえる仕事の奥にある美学でしょう。

我々の自然は実は全て球状の原子からできていて、それが数学的な直線や正六角形を作って分子となり、さらにそれが集まって有機物や生き物を作っていく。有機的と思われる自然のものは、実はすべからく"無機的"な数学的図形からできています。毎年富井さんの桃居の展示に添えさせていただいている「走査トンネル顕微鏡」写真の幾何学模様も、生活工芸とは相容れないようなイカツイ響きですが、その実は単に純粋な自然の一部分だから、工芸と相性が合わないわけがない。

富井さんの彫りの仕事は、そもそも上記のように両義的に見える自然に、自然から離れてしまったいわゆる工芸の文脈から再度にじり寄っていくための試みであるから、シャケが川を遡る、というか、そのために必然的な多少の違和感を伴うけれども、その運動の本質を感得する方々が確かに増えていることが感じられました。


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